SPECIAL INTERVIEW
木村政雄スペシャルインタビュー Vol.69
板東英二
タレント
板東英二(ばんどう・えいじ)
1940年4月5日、旧満州国生まれ、徳島県育ち。徳島商業高校時代、夏の甲子園準々決勝・魚津高校戦にて延長18回を投げきり、同大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録となっている。1959年、中日ドラゴンズに入団。11年間のプロ野球生活を経て、タレント、司会者、俳優など、幅広い分野で活躍。特に映画『あ・うん』('89)での演技は高い評価を受け、第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞の他、数々の賞を受賞している。
人生、何がいつ起こるかわからない
テレビの中から人なつっこい笑顔を振りまき、
阿波弁で芸人顔負けのしゃべくりを披露する......。
今ではすっかりお茶の間の人気者として知られる板東英二だが、
その根っこにあるのは、やはり野球。
いまだ破られていない奪三振記録を打ち立てた高校球児時代、
そして、あの長嶋や王とも渡り合ったプロ野球選手時代。
旧知の仲である木村編集長が、
過去から現在に至るまでたっぷりと聞いた。
木村 板東さんは、中国のお生まれなんですよね?
板東 僕はね、朝鮮半島寄りの吉林省です。
木村 1940年生まれでしたっけ。
板東 そうです、もう71歳を越えました。
木村 とてもそんな風には見えませんよね。自分たちが若い頃は、60や70の人って本当におじいさんという印象でしたよね。板東さんは、年齢を意識されることはありますか?
板東 体力的な衰えは、どうしようもないですね。僕はただでさえ人の名前を覚えるのが苦手なのに、最近のバラエティ番組は一気に15人、20人くらい出演しますから。そうなるともう、一人ひとりの名前なんか覚えられないですねぇ。
木村 中国から引き揚げた後、お父さんのご実家がある徳島へ行かれたんですよね?
板東 父親は庄屋か何かの息子だったらしく、ちょっと破天荒なところがありました。当時は日本全土が大変な時代でしたから、ひもじい思いをしても、それほど苦痛ではなかったですね。ただ、農家の子供たちが、遠足のときに白いご飯を持ってくるのだけは、うらやましかったなぁ。
木村 野球はいつ頃からおやりになったんですか?
板東 子供の頃から布きれを糸でくくったものをボールにして、野球のまねごとはしていました。軟式のボールを初めて触ったのは中学生のときですね。最初はショートで、すぐピッチャーになって。中学時代は無敵でしたよ。相手になる学校がいませんでした。なにせ、その中学校から4人がプロ野球に入ってますからね。
木村 そして、徳島商業高校に入られて。
板東 今で言う特待生でした。僕は四人兄弟の末っ子で、兄貴が大学に行ってたし、貧しい家なので資金不足でね。それでなくても中学を卒業したら集団就職で都会に出て行くのが当たり前の時代でしたから。だから運良く、野球が引っ張ってくれた形でした。親父は口減らしになるから喜んで「行け!」と言ってましたよ。
木村 高校時代の活躍は、斎藤佑樹どころじゃないですよね。佑ちゃんならぬ英ちゃん(笑)。やっぱり、佑ちゃんくらい人気はありました?
板東 魚津高校の村椿(輝雄)投手と僕とは、ちょうど佑ちゃんとマーくんのような感じだったと思いますよ。彼は色白で、名前も村椿。片や、こちらは板東(笑)。しかも色黒で、見るからにやんちゃなわけでしょう? 僕が甲子園で拍手をもらったのなんて、準優勝のアナウンスが流れたとき、そのたった一回だけでした。
木村 みんな魚津高校を応援してたんですか?
板東 そうです。僕は態度も悪かったんだと思います。
木村 今は?肩は消耗品?なんて言いますが、当時はどうだったんですか?
板東 全然違いましたね。試合前に、甲子園の外で最低でも二百球は投げるんですよ。それで甲子園のブルペンでも百球くらい投げる。つまり、すでに三百球くらい投げた状態で、試合に臨むわけです。
木村 そんな状態で、魚津高校との試合では、18回まで投げたわけですか!
板東 そうそう。新聞記者の方から「18回まで投げて、疲れたでしょう?」と言われるんですが、僕にしたら練習の方がきついんです。だから「いや、疲れてません」と言うと、生意気な奴だと思われてね
(笑)。でもね、練習に比べると、試合では水が飲めるし、半分はベンチに座っていられる。夏休みの練習なんて、朝9時から夜11時までやるわけですから、そりゃあしんどかったですよ。
木村 確かあのときの優勝は、柳井高校でしたよね。
板東 そうなんです。僕らが優勝しているように思われていますが、違うんですよ。7点取られて、やっぱり疲れが残っていたのかもしれないですね。野球生活で七点も取られたのは、柳井高校との試合だけでした。
木村 高校卒業後はプロ野球に入られるわけですが、契約金は何と長嶋さんや王さんより多かったらしいですね。
板東 王くんも長嶋さんも、早く決まってたんですよ。僕は大学に行きたかったし、国体に出場することになってましたから、夏休みを過ぎてもプロ入りが決まってないのは、僕だけだったんです。そんなわけで、争奪戦が始まったんですね。結局、破格の2000万円という契約金になりました。先日ある番組で調べてもらったら、今のお金に換算すれば4億7000万円くらいの価値だそうです。そりゃあもう、大変なお金でした。
木村 実際プロへ入って、どうでしたか?
板東 入ったその年のキャンプで、これはとても無理だと思いましたね。なにしろ、みんなデカい!
木村 板東さん、身長は?
板東 168センチです。見栄を張って173センチで登録してましたけどね(笑)。
木村 ピッチャーとして対戦されてみて、王さんと長嶋さんは、やっぱり違ってましたか?
板東 王くんには、ほとんど打たれてないんですよ。僕が決めるべきところにキチッと決めれば、絶対に打ってこない人でしたから。ところが長嶋さんはねぇ......動物的というか、敬遠するようなボールでも打ってくるし、ショートバウンドでも打ってくる。つかみどころがなかったですねぇ。
プロ野球選手から一転
マルチな才能を発揮する
木村 板東さんは、野球選手をやりながら、いろいろと副業もなさってたんですよね。
板東 シーズンオフにジュークボックスを売ったり、牛乳屋をやったり......当時は牛乳が貴重な時代でしたからね。たまたま知り合いの牛乳屋さんのところに遊びに行ったとき、もう廃業するという話を聞いたので、権利を全部買いましてね。シーズンオフだから、営業する時間はたっぷりあるわけです。「中日のピッチャー、板東英二です」と言えば、僕の顔を知らなくてもみんな買ってくれました。
木村 他にも、サウナやら雀荘やらナイトクラブやら......。
板東 ナイトクラブはね、森繁久弥さんや三木のり平さんなど、いろんな方が来てくださいましたよ。そうそう、少し脚光を浴びだした頃の太地喜和子さんも。お酒が大好きな人なのに「お金がない」って言うから、給料を聞いたら「3万円」だと言うんです。思わず「ただでどうぞ」って言っちゃいましたね(笑)。
木村 一方で野球をやりながら、もう一方では実業家だったわけですね。
板東 いや、実業家というか......とにかく野球を続けられるとは思ってなかったんですよ。体は小さいし、肘も痛くていつまで持つかわからなかったんでね。
木村 野球の才能はあるし、商売の才能はあるし、さらにタレント、俳優としての才能もあるってこれはすごいことですよ、まさに三冠王ですね(笑)。11年間でプロ野球選手を引退された後、まずは野球解説をされたんですよね?
板東 野球解説はねぇ、僕は今でも日本一やと思ってるんです。実況とは別のもので、解説は聞く人が楽しめる方がいい。もっとエンターテイメントの要素があったらいいのになぁと思います。アメリカの野球解説がまさにそうで、少し色を付けておもしろくするんですよね。アメリカの中継ですごいのは、一般視聴者からクーラーが壊れたという電話が局にかかってきたことがあったらしいんですよ。せっかくいい試合を観ている最中だから、一番早く来てくれる電器屋さんを教えてくれ、と。それで放送中に呼びかけたところ、ものすごい電話で、たくさんの情報が寄せられたらしくてね。それが一番素晴らしい野球番組だというのを本で読んだことがあるんです。家で試合観戦している人は、野球はもちろんのこと、他の情報もほしがっているものなんですね。ただ、僕はシーズン途中で解雇された日本唯一の野球解説者ですから。
木村 シーズン途中で?
板東 ラジオで解説をしているとき、試合が終わった後に「あのことがあったから、今日は負けたんだ」という表現をしたんです。「あのこと」というのは、僕のラジオをずっと聞いてくれていた人ならわかること。テレビで観ていて、途中からラジオを聞いた人に説明する義務はない、と。ところが局からは、いたく叱られましてね。それが舌禍事件のようになって、シーズン途中で解雇されたんです。それで「どうしよう」となったとき、上岡(龍太郎)さんから「大阪に来たらいい」とおっしゃっていただいて......。僕はもともと、上岡さんのしゃべくりの技術と、斜に構えた視点が大好きやったんです。大阪では、最初にラジオ大阪の仕事をしました。でもディレクターが野球音痴で「全然おもしろくない」って言われて、半年で終わってしまったんです。そのラジオをKBS京都の人が聞いていたらしく「おもしろい!」と使ってくれて、さらにABCテレビの人が聞いてくれて「おもしろい」と言ってくれて、番組出演が決まりました。それがビンゴゲームの番組(「THEビッグ!」)で、僕がセンターに立ち、横には(笑福亭)鶴瓶と(桂)文珍がいて、(明石家)さんまちゃんもいて......今にして思えば、夢のような番組でしたね。
木村 板東さん、その頃はノック事務所の所属だったんですよね?
板東 そうです。(横山)ノックさんと上岡さんの事務所です。これがルーズな事務所でねぇ。あんまりいい加減なんで、僕が「辞めます」って言うと、上岡さんもノックさんも「板ちゃんが辞める言うんやったら、僕らもついていくわ」と言う。あんたの会社やっちゅうに(笑)。
木村 ノックさんらしいエピソードですよね。その後、板東さんは放送演芸大賞最優秀ホープ賞を受賞されて、しかもアカデミー賞最優秀助演男優賞まで受賞されているわけですが、そんな人って他にいませんよ!
板東 運が良かったんだと思います。プロ野球選手にしてはおもしろい、ということだったんでしょう。相当高い下駄を履かせてもらってたと思いますよ。ノックさんと上岡さん、両方を知ってたというのも強みだったのかもしれないですね。毎晩のように麻雀をして、飯を食って......そうすると、たとえば(月亭)八方が横にいて、おもしろい話をするわけです。僕はその話を覚えておいて、自分の話のようによそでしゃべる(笑)。それで十分、ウケてましたからね。
木村 いやぁ、すごい才能だと思います。
板東 まぁ、トレンディドラマで関西弁をしゃべったのは、僕が初めてでしょうね。関西弁というか、徳島の方言ですけど。上岡さんにはしょっちゅう怒られました。「そんなのは京都の言葉でも大阪の言葉でもない!」って。結局、ありのままでいけたのが良かったのかもしれないですね。
浮き沈みの激しい世界で
モチベーションの源となったもの
木村 野球選手の引退後といえば、野球解説者か、あるいはコーチや監督になるというのが定番だと思うんですが、そういう話はなかったんですか?
板東 実は選手としての最後の年に、水原(茂)監督から、コーチにならないかという話もあったんです。でも水原監督が渡米してしまって......。ひょっとすると、監督が渡米していなければ、僕はコーチをして、今のような仕事はしていなかったのかもしれない。そう考えると、まぁ、これで良かったのかなぁとも思いますけどね。
木村 それ以降、コーチになるという話は? これだけ芸能界で儲けてたら、もういいですか(笑)。
板東 いやいや(笑)。僕はこういう芸能畑に来てしまって、球場へ行くのは非常に気持ちが重かったんです。「ちょっと売れたくらいで、我がもの顔で球場に来てチャラチャラしやがって」と思われるのが嫌で。上岡さんにも「板ちゃん、あんたはグラウンドに下りたらあかん」と言われてましたし、僕もそうなのかもな、と。でもあるとき、長嶋さんに取材しに行ったら、長嶋さんが僕の手を取って「ありがとう」とおっしゃるんです。「板東くんのお陰で、野球選手にもまた新しい道が開かれた」と。このときに、あ、グラウンドに来てもいいのかなぁと思いましたね。だから今も、取材だけは一生懸命させてもらうんです。僕は野球解説をクビになった後、大阪でずっと野球の原稿を書いてたんです。でも忙しくなってずっと書けていないんで、今年一番の課題は、野球のことを書くということなんです。サンスポには、すでに僕の原稿用紙が用意されているんです。僕はパソコンができないんで......。
木村 板東さん、パソコンって簡単ですよ。僕も去年、初めてやったんですよ。原稿を書くなら、パソコンの方がはるかに楽です。
板東 みんなそうおっしゃるんですよね。(島田)紳助が「iPadがいいですよ!」と言うから、僕は三台買ったんです。でも、ずっと充電したまんま(笑)。
木村 ものを考えたり書いたりすることは、もともと得意なんですか?
板東 理数系は苦手でしたけど、国語や社会は大好きでしたね。今でも高校野球の監督になったら、おもしろいだろうなぁと思うんですよ。そのためには、学校の先生の資格や、高野連の認定が必要なんですけどね。僕ね、学校の先生になれんこともないなぁと思ったりするんですよ。
木村 そりゃあ、なれますよ。板東さんなら経験も豊富ですし。たとえば、ジャイアンツのピッチングコーチになる、なんていうのはどうですか?
板東 以前、ジャイアンツが低迷しているとき、バッティングケージの後ろで僕が話していると、原(辰徳)くんが「板東さんみたいな明るい人がいいんだよなぁ」って言うんですよ。で、そのすぐ後に「しかし、年俸がなぁ......」って。まぁ、冗談っぽくですけどね。あと、ヤクルトの高田(繁)監督から「どうして監督をやらないんですか?」と聞かれたときに「やるもやらないも、指名されないから」と答えると「じゃあ、僕が辞めるときは板東さんを指名して辞める」と言われたことがあるんです。それで僕は盛り上がって、周りにもその話をしてたんです。でもあるとき、キャンプへ取材に行って帰ろうとしたら、紳士の人が近づいてきたんです。そして僕に向かって「うちの球団で遊ばないでください」と......その人、ヤクルト球団の社長だったんです。
木村 きっと、頭のカタイ人だったんでしょうね。最後にお伺いしたいんですが、板東さんがここまでがんばれる、モチベーションの源って何なんですか?
板東 「なんでそんなに働くんだ?」とは、よく聞かれます。やっぱり僕は、ひもじい思いをしてきたんで......。戦争もあったし、名古屋に行った年に伊勢湾台風を経験したし、大阪でがんばってるときには阪神大震災も経験しました。人生、いつ何が起こるかわからないということを、肌で感じてきたんだと思います。だからこそ、食ってさえいれば生きていけると思うんです。今も芸能界という浮き沈みの激しい世界にいて、正直、怖いんですよね。だけど、とりあえず他人より多く働いていれば、最低限食うことには困らないだろう、雨風はしのげるだろうという考えが、底辺にあるんだと思います。だから「そんな仕事は、もう請けなくてもいいじゃないか」と言われるような仕事でも、ありがたいと思って請けます。ただ、自分としては七五歳というのが大きな節目かなぁとも考えているんですよ。そこから先、介護されることのないよう、なるべく迷惑をかけずに終焉を迎えるには、多少の蓄えも必要ですよね。それから、嫁、娘、孫たちにも、多少の贅沢はさせてやりたい。それが僕の務めだと思っているんです。
木村 七五歳と言わず、八〇歳、九〇歳までがんばってくださいよ。
板東 木村さんとはある意味、戦友のようなものですからね。そう言われると、うれしいですね。
<編集後記>それにしても、まあ元気な人である。かって甲子園でこの人が挙げた、一大会八三の奪三振記録は今も破られていない。板東・村椿の息詰まる投手戦は今も人々の脳裏に残っている。それだけでも十分に凄いことなのに、タレントとしての才能まである。おまけに、商才まであって、奥様が美人とくれば、「この罰当たり者」と、羨みたくもなってくる。きっと、人生における選球眼も優れた人なのだろう。この上はその卓越したセンスを生かして、高校野球といわず、是非プロ野球の監督姿も見てみたい。人気低迷に悩む球団にとっては起死回生の策になる気がする。ピンマイクでも着けて監督の声を中継すればそれだけで最高のエンターテインメントになると思う。対談の後、東京へ急ぐ板東さんの後姿を見ながらふとそんな事を考えた。
平成23年7月1日発行(通巻69号)
編集長 木村政雄/アートディレクション&デザイン 額賀剛治/
カメラ 山崎豊/エディタ 濱田うらら/制作進行 池田大作
© 2011 LIFE ENTERTAINMENT.All rights reserved.
