SPECIAL INTERVIEW

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木村政雄スペシャルインタビュー Vol.70

秋元康

タレント


秋元康(あきもと・やすし)
作詞家。高校時代から放送作家として頭角を現し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がける。83年以降、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、EXILE『EXIT』、ジェロ『海雪』(第41回日本作詩大賞受賞)、AKB48『Everyday、カチューシャ』ほか、数多くのヒット曲を生む。05年4月、京都造形芸術大学教授就任。07年4月、同大学副学長就任。TV番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、映画の企画・原作(『着信アリ』シリーズほか)、雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルグループ"AKB48" "SKE48" "SDN48" "NMB48"の総合プロデューサーも務める。著書に、小説『象の背中』(扶桑社)、『企画脳』(PHP文庫)ほか多数。日本放送作家協会理事長。日本音楽著作権協会(JASRAC)理事。

初めてを探し続けること―。
それが楽しく生きる秘訣だと思う。

作詞家、放送作家、プロデューサー、
小説家、映画監督、大学教授...と
さまざまな肩書きを使い分け、
70年代から今日に至るまで
時代を築き上げてきた秋元康さん。
その原動力は、尽きることのない好奇心だという。
プレッシャーと戦い、父の死を乗り越え、
そして辿り着いた新たなる境地――。
希代のヒットメーカーの秘めたる思いに迫った。

木村 私もこれまで大勢の方をインタビューさせていただきましたが、事前に質問内容を聞かれたのは秋元さんが初めてなんですよ。
秋元 サービス精神とでもいいますか、インタビューしていただいたときに、どうしても見出しやリードになるような言葉を考えてしまうんですよ。性なのかもしれません。今回のインタビューの企画書を拝見したところ、僕の人間味の部分を掘り下げたいという趣旨でしたので、それに纏わるエピソードは何かなかったかなって。
木村 いや、さすがですよね。サービス精神といえば、秋元さんの言葉は非常に分かりやすいし、流行りのカタカナ語などはあまり使われませんよね。意識はされているのですか? 
秋元 どれだけ分かりやすく伝えるかが僕の仕事だと思っているので、自分が逆の立場で分かりにくいと感じる言葉はなるべく使わないようにはしています。
木村 秋元さんといえば、枚挙にいとまがないほどの肩書きをお持ちですが、今回は?作詞家?でお願いしますとのことでした。やはり作詞家という肩書きにこだわりをお持ちなのでしょうか?
秋元 いえ、単に分かりやすいので。いろいろな仕事をさせていただいていますが、例えば放送作家は共同作業で番組を作りますよね。僕一人の仕事ではない。小説も直木賞でも取っていれば話は別ですが、まだそんなレベルではありませんから。自称の肩書きと人が言ってくださる肩書きは違うと思うんです。
木村 秋元さんとお会いしていつも感じるのは、?ザ・芸能界?の方なのに全然それらしくないところが素敵だなということです。
秋元 でもそういう風に思われているのではないでしょうか。自分の意識としては芸能界にいるつもりはないのですが、実際はど真ん中にいるわけですからね。今回のように取材などで誰かとお会いすると、「意外と普通の人なんですね」とよく言われます。すごくギラギラした人間だと思われているみたいで...(笑)。次は何を仕掛けてやろうとか、そういう野心のようなものはあまりないんですよ。
木村 思われがちですよね。だから実際にお会いすると、逆に新鮮な印象すら受けます。この業界、そういう人って割と少ないじゃないですか。若い頃からそうなのですか?
秋元 そうですね。僕の精神の根本にあるのは、アルバイトの感覚なんです。高校二年のときから放送作家の仕事を始めたので、「アルバイトですから」という意識がなかなか抜けなくて。ただ30歳になった頃、一年半ほどニューヨークに移住したのですが、それを境に意識は少し変わってきたと思います。
木村 ニューヨークへ行かれたのは、自分の人生に確たるものがないから、いったん日本を離れてみよう。もう一度自分を見つめ直してみようと思われたのですか?
秋元 そうですね。僕の父は普通のサラリーマンでした。一方僕のもとには、見たこともないような額の印税が振り込まれるわけですよ。しかし父は「お前の稼いだ百万円と、俺の稼いだ百万円は違う」と言って相手にしてくれない。あぶく銭とよく言っていましたね。でも確かにそうだなと。例えば僕は、きちんと作詞の勉強をしたこともなければ、誰かに師事したわけでもない。何の根拠もないまま、高校生のアルバイトの延長で来てしまった。つまり最終的な責任は取らなくてもいい立場でずっといたんです。ところがあるときから、会議などに出ると自分が最年長になっていた。これからは今までのままではいけないな、と。
木村 それで彼の地で美空ひばりさんの『川の流れのように』を書かれたのですよね。結果的に移住が大きな分岐点になったわけですね。
秋元 それはあります。それまで本当に忙しかったので、まずはまとまった休みが取れたということが大きかったです。それともう一つは、向こうでミュージカルを作ろうと意気込んで渡米したのですが、本場アメリカのエンターテイメントの壁にぶち当たった。コネクションもまったくない中で、ダコタハウスに行ってオノ・ヨーコさんと打ち合わせして、映画を作ったりもしたのですが、やればやるほど「アメリカって凄いなぁ。敵わないなぁ」と。日々感じるのは挫折感ばかり。もう一度日本に戻って、腹をくくってやらないといけないと痛感させられましたね。


何を目撃するか――
それが人生の財産になる



木村 38歳のときにお父さまがお亡くなりになられ、その約十年後に小説『象の背中』を書かれました。これは余命半年と診断されたサラリーマンを描いた物語ですが、やはりお父さまの死というものが執筆のきっかけになったのでしょうか?
秋元 そうですね。人生で一番ショックを受けた出来事でしたから。父は肝炎、肝硬変、肝臓ガンに侵されまして、僕自身も覚悟はできていたのですが、人間の覚悟なんて大したことではないなとつくづく感じました。病院の先生に「ガンです」と言われたときには、頭の中が真っ白になり、まるでドラマを観ているような気分でしたね。父に告知をするのは長男である僕の役目。するか、しないかで相当迷ったのですが、結局しないでおこうと。
最期は自宅で倒れたのですが、救急車に乗っているときに、付き添いで同乗していた母に、「ペンと紙をくれ」と言ったそうなんです。何かを伝えたかったのでしょうね。でも伝えきれなかった。もし僕が告知をしていたら、母に思いを伝えることができたかもしれない。そう思うと、告知しなかったことが良かったのか悪かったのか、いまだに分かりません。きっと僕はそのことを一生抱えていくことになると思います。
木村 しばらくは立ち直れなかったわけですね。
秋元 三カ月くらい立ち直れなかったです。父や母ってずっと生きているような気がするじゃないですか。20代30代の一番忙しい時期に父から電話があって「忙しいのか?」と聞かれると、「いやぁ?、忙しいよ」といって電話を切っていました。でも、きっと父はもっと話したかったんですよね。一方で本当は僕も父に聞きたいことがたくさんあったのに、そのチャンスを逃してしまったと、亡くなって初めて痛感しました。
木村 私は現在65歳で、秋元さんより10歳上なのですが、読んでいて「そうか、やはり死に様って大事だな」とつくづく感じさせられましたよ。
秋元 父は60歳で会社を定年退職したのですが、退職後も友人から仕事の誘いを受けていました。しかし、ちょうどその頃に肝硬変になったこともあり、僕は親孝行のつもりで「無理するな。もう働かなくていいよ」と隠居させるつもりで、うちの事務所の会長になってもらいました。父もそれで納得してくれ、後で母や弟から聞いたところによると、すごく喜んでいたそうです。ところがある日、僕が不在のときに、父が事務所にやって来て、自分の机がないことに気づくんですよ。畑違いの業界ですから、あくまで名誉職として会長になってもらったつもりだったのですが、父にはそれがとてもショックだったようで...。当時の僕は悪いことをしたなんて思っていませんでした。でも55歳になった今なら、分かるんです。あと五年後に「お前、何もしなくていいよ」と言われたら酷だなって。つまり余命という言葉がありますが、余った命なんてないんですよね。父は残りの人生を、楽して過ごしたかったわけではなく、苦労してでも有意義に生きたかったのではないかな、と。
木村 会社に机があるのと、ないのとでは全然違いますよね。それはお金だけの問題ではない。お父さまはきっと喪失感のようなものを感じられていたのではないでしょうか。
秋元 僕らのような自由業の人間は、「余命半年になったらどうしますか?」なんて質問をされると、普段からやりたいことをやっているだけに、何も思い浮かばないんですよね。しかし高度経済成長期のモーレツ社員として働いてきた父は、時間があればやりたかったことがたくさんあったのかもしれません。実際父は60歳になってから車の免許を取ったり、麻雀を覚えたりしていましたが、それでも木村さんが今おっしゃったように喪失感は補うことはできなかったのでしょう。
木村 『象の背中』の終盤で、金貸しの老女が主人公に向かって「あんたは金の代わりに何を残せたんだい?」と問いかけますよね。あれはとても大きなテーマだと感じました。
秋元 僕自身、歳をとって分かってきたことがあるんです。それは、人生における財産は?目撃する?ことだと。例えば僕は東京オリンピックを見たし、長嶋さんや王さんの現役時代も見ました。しかし残念ながらビートルズは見られなかった。つまり人生って、何を見たかじゃないですか。きっと僕の場合、死ぬときに走馬灯のように、美空ひばりさんとレコーディングしている情景が思い浮かぶと思います。そういう一つ一つのシーンが人間にとって財産だと思うんです。
木村 秋元さんにとって、お父さまの死は大きなターニングポイントになったのでしょうね。私の父は六〇歳で死んだのですが、父の歳を越したときは、やはりいろいろと考えるところがありましたね。
秋元 そうですよね。僕の祖父は七五歳で亡くなったのですが、父はずっと祖父の歳までは生きたいと言っていました。男ってどこかで父親と自分を重ねるところがある。僕自身、父が亡くなって三カ月はショックで仕事も手につかなかったのですが、ある日鏡を見たら、そこに父が写った。もちろんそれは自分の姿なのですが、まるで遺伝子のリレーのように、自分の中に父が生きているような気がしたんです。それが立ち直るきっかけになりました。


常に好奇心を持って
ワクワクしていたい



木村 55歳になってもいまだに、AKB48のような若者を対象にしたコンセプトメイクができる秘訣とは何なのでしょうか?
秋元 よく「おニャン子からAKB、美空ひばりさんまで色んなことをやりますよね」と言われるのですが、料理を作るという意味では一緒なんです。つまり中華もフレンチも和食もあると。「秋元さん、五五歳にもなってよくそんなに脂っこい料理を作れますよね」と言われても、僕はあくまで料理人であって、自分が食べるわけではありませんから。
 ただ、好奇心がなくなったらやめようとは思っています。例えばテレビの視聴率が30%といっても、所詮は瞬間的なもの。僕はテレビ業界の出身なので、小劇団やロックバンドが少しずつお客さんを増やして大きくなっていく過程が羨ましかったんです。そして自分もやりたいなという好奇心が、秋葉原のAKB48劇場の立ち上げに繋がりました。
木村 ヒットの秘訣なんて、きっと後理屈なのでしょうね。後で振り返って当てはめればそうだったということ。
秋元 おっしゃる通りなんですよ。すべては「振り返れば」なんです。音楽業界はCDが売れなくなってきた。そしてマイケル・ジャクソンもマドンナもみんなライブを一生懸命やるようになった。「だから秋元さんは、これからはライブの時代になると見込んでAKB劇場を作ったのですね?」と聞かれるのですが、それは結果的にそうなっただけ。劇場がオープンした当初は、七人しかお客さんが入らず、一体どうなるのかワクワクしていたら、二カ月後には満員御礼になりました。僕はただそのワクワク感を求めていただけなんです。
木村 人の予想を裏切りたいという意識はあるんですか?
秋元 それはありますね。例えばテレビで新番組を作る際は、視聴者が予想できるような内容のものは作りたくない。予定調和を壊すというか、冒険したいなと考えてしまいます。僕は常々「みんなが行く野原には野イチゴはない」と思っているんです。崖っぷちや蛇が出るような場所に行かないと、野イチゴは摘めないんだと。特に若い頃は、「なんでみんな行かないんだ! 俺は行くぞ!」と息巻いていました。ところが、段々と歳を重ねてくると、なるほどなと気づかされる部分もあります。つまり先人たちもそこに野イチゴがあることは知っていた。知っていても行かない――それなりの理由があるんですよね。
木村 秋元さんのお仕事を見ていると、我々が気がつかない、昔からあるものにもう一度角度を変えて光を当てていらっしゃるような印象を受けますね。
秋元 木村さんは大先輩なのでお分かりかと思うのですが、僕らはずっと同じことを繰り返しているんですね。僕らが子供の頃はイチゴのショートケーキは王様でした。その後、マンゴーやパッションフルーツなどが輸入され、今では色んなフルーツをトッピングしたケーキがあります。でも、ベースとなるスポンジケーキや生クリームは基本的には一緒。「よくその齢でAKBの詞が書けますよね」と言われるのですが、僕が十代の頃を思い出すと、興味があるのは、音楽とファッションと異性でした。それは今の若い子も一緒じゃないですか。要するに僕は、上に乗せるフルーツを考えるだけなんです。
木村 今度は乃木坂46が誕生するそうですね。なぜまた乃木坂なのですか?
秋元 現在AKB、SKE、NMB、HKTと、英語の頭文字ばかりが並んで混乱しそうなので、次は漢字三文字で行こうと。さらに乃木坂にソニーがあった関係で、「乃木坂」という響きは面白そうだなと思いまして。数字も48は食傷気味なので、46にしました。AKBのライバルという位置づけです。
木村 どこまで新しいことにチャレンジされるのか、今後も非常に楽しみです。ただ一方で、絶えずヒットすることを求められる立場でもあると思うのですが、プレッシャーってないですか?
秋元 感じますね。昔はアルバイト感覚だったので、無責任にバットをブンブン振り回し、たまに大きい一発が出れば褒めてもらえました。でも今は塁に出なくてはいけないという意識があって、ついついバットを短く持ってしまうんですよ。もしかしたら老いなのかもしれない。ピッチャーで例えれば、昔はストレートでグイグイ勝負していたのが、変化球でかわすようになりました。
木村 若い頃は10戦10勝でないと納得しなかったのが、40歳を過ぎたあたりから、5勝4敗1分けでも納得するようになったと、どこかでおっしゃっていましたが?
秋元 僕は20代前半からヒットに恵まれたため、常に勝ちたいという気持ちが先行していたんですよ。でも40歳を過ぎた頃から、人生勝ち越せればいいなと思うようになりました。それからですね、気持ちが楽になったのは。
木村 誰もが秋元さんのようには生きられないと思うのですが、特に男性は六〇歳くらいになると会社との縁が切れたりして、みんな孤独になりますよね。そんな中、生き生きと楽しく過ごすにはどうしたらいいと思われますか?
秋元 僕が言うのも生意気ですが、人間の幸せという冷蔵庫の中身みたいなものだと思うんですよ。冷蔵庫を開けて「この残り物じゃ、すき焼きは作れない、しゃぶしゃぶも作れない」と、作れないものばかり数えていたらキリがないじゃないですか。それより「これならお好み焼きが作れるな」って、今ある食材で作れる料理を考えたほうが幸せな気分になれますよね。たぶん60歳くらいになったら、そういう発想が必要になってくるのではないでしょうか。
 それと僕の周りにいる素敵な年配の方を見ていると、皆さん?初めて?のものを探しているんですね。若い頃は、初めて海外旅行に行ったり、初めてフグを食べたりして、感動する機会も多いですが、歳を取ると"初めて"のものがなくなっていきます。だからこそ意識的に探さないと。僕も40歳を過ぎた頃、テレビ番組で初めて陶芸をやったのですが、面白くてワクワクしました。
木村 実は私も占いを習おうと思っているんですよ。
秋元 いいじゃないですか。木村さん、ご趣味はあるのですか?
木村 趣味はあまりないのですが、去年初めて車の免許を取りました。
秋元 そういうことですよね。教習所に行けば、学科試験にドキドキしたり、路上教習にワクワクしたりしますよね。そういう刺激は、やっぱり?初めて?じゃないと味わえないものだと思います。
木村 なるほど。私も?初めて?をもっとたくさん探したいと思います。今日はいいお話をいっぱい伺えて、楽しかったです。ありがとうございました。


kimura72.jpg<編集後記>「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことをいっそうゆかいに」、秋元さんの話をうかがっていて、井上ひさしさんのこの言葉を思い浮かべた。達人というのはやはり同じようなことを考えるらしい。B to BやB to Cなど訳の分からぬ外来語が闊歩する風潮に辟易している私にとって、実に心地いいひと時であった。柔和な風貌と穏やかな口調から語られる言葉の深かったこと。「そうだ、私も今日帰ったらさっそく冷蔵庫を開けてみることにしよう!」秋元さんの瀟洒なオフィスを後にしたときはそう思ったのだが、果たしてどんな料理が作れるのか、いささか心許なくなってきた。


平成23年8月1日発行(通巻70号)
編集長 木村政雄/アートディレクション&デザイン 額賀剛治/
カメラ 花井智子/エディタ 茂木貴生/制作進行 池田大作
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